飛燕一型丙のバリエーションキットで、飛燕の代表的な部隊と言える、飛行第244戦隊の機体が再現できます。
日本機に強いと言われるファインモールドの近年の製品だけあり、プロポーションやディテールも良好ですが、丙型の特徴である主翼上面の大型化したバルジの再現が無視されているので、手を加えるとグッと丙型らしくなります。
ちなみにパッケージアートでもキットに迎合してか、大型バルジの表現がありません。
他に飛燕二型や五式戦の主翼を流用した弊害として、主翼下面と胴体の接合ラインが実機と違っているので、ここを修正するとかなり見栄えが良くなるでしょう。
付属のマーキングは小林大尉機と生野大尉機の二種で、小林大尉機には迷彩デカールが用意されており、これを使えば手軽に迷彩塗装が再現できる…と言いたいところですが、この迷彩デカールを綺麗に貼るのは初心者にはかなりハードルが高いと思います。
飛行第244戦隊は飛燕を語る上では欠かせない部隊なので、日本機フリークには見逃せないキットでしょう。
2006年には小林大尉の1/72レジン製フィギュアが付属する限定版も発売されましたが、現在では入手困難みたいです。
ファインモールド 1/72 日本陸軍 飛燕一型 丙 飛行第244戦隊 プラモデル FP26
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ブランド | ファインモールド(FineMolds) |
商品寸法 (長さx幅x高さ) | 43 x 130 x 300 mm |
材質 | プラスチック |
シーズン | オールシーズン |
付属コンポーネント | 組み立て説明書他 |
この商品について
- 組み立て、塗装が必要なプラモデル。別途、工具、塗料等が必要。
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登録情報
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 製品サイズ : 4.3 x 13 x 30 cm; 140.61 g
- Amazon.co.jp での取り扱い開始日 : 2008/4/9
- メーカー : ファインモールド(FineMolds)
- ASIN : B00169VSVO
- 商品モデル番号 : FP26
- 原産国 : 日本
- Amazon 売れ筋ランキング: - 315,782位ホビー (ホビーの売れ筋ランキングを見る)
- - 3,407位飛行機・ヘリコプターのプラモデル・模型
- カスタマーレビュー:
商品の説明
東京・調布基地を拠点に帝都防空の重責を担った陸軍飛行第244戦隊は、昭和18年7月から三式戦闘機「飛燕」を配備します。19年11月からは陸軍史上最年少の戦隊長となった小林照彦大尉に率いられ、時を同じく始まるB-29の本土空襲に対しては体当たり攻撃も含む果敢な迎撃戦を繰り広げます。エンジンの信頼性に不評がある本機をよく整備して高い稼働率を維持。20年5月の機種改変まで160機以上の撃墜破を記録しました。完成時全長121mm、全幅167mm。部品点数60点。マーキングは244戦隊の2機が選択可能。胴体と主翼の迷彩を大判デカールで再現。エンジン、機首機関銃を露出させ、完成させることも可能。
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ファインモールド・川崎三式戦闘機Ⅰ型丙・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機・昭和20(1945)年2月・調布陸軍飛行場
ファインモールド1/72・川崎三式戦闘機Ⅰ型丙・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機・昭和20(1945)年2月・調布陸軍飛行場・21.07.20完成[キットについて]ファインモールド社らしい繊細なモールドで、スマートなシルエットをよく再現している好印象なキット。主翼の合わせなど一部難があるものの、大変素晴らしい内容である。主翼マウザー砲は真鍮挽き物加工部品が同梱。エンジンルール開状態も再現できる。操縦員フィギュアなし。デカールは、濃緑色マダラ迷彩を再現した大判デカール附属の①飛行第244戦隊戦隊長・小林照彦大尉機(昭和20年1月・調布飛行場)②飛行第244戦隊第1飛行隊「そよかぜ隊」隊長・生野文介大尉機(昭和20年2月・調布飛行場)、の2種類。精密なコーションマークも附属していて再現度が高い。作例は当時の写真にも遺る、① 三式戦闘機1型丙(キ61-I丙)・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機(昭和20年2月・調布飛行場)。個性的な標識・塗装・迷彩を施すことが認められていた陸軍航空部隊の中でも、特に第244戦隊は派手なことで知られる。[飛行第244戦隊(飛行第二百四十四戰隊)]通称号「帥三四二一三部隊」。軍隊符号「244FR」又は「244F」。主に帝都防衛任務にあたり、禁闕守護の近衛師団に準え、「近衛飛行隊」と自他共に称していた。部隊記章は「244」を図案化し星を散らしたものを垂直尾翼に描いた。昭和16(1941)年8月、当初は「飛行第144戦隊」として編成。昭和17(1942)年4月、西日本方面の防空専任部隊(近畿地区の飛行第246戦隊、北九州地区の飛行第248戦隊)新編に伴い、「飛行第244戦隊」と改称。歴代戦隊長は、初代泊重愛少佐、2代村岡進一少佐、3代藤田隆少佐、4代(最終)小林照彦少佐。中でも大戦末期に着任した高名な小林少佐は、24歳という当時陸軍最年少戦隊長であり、自身もエースパイロットであった。第144戦隊編成時より、東京の調布陸軍飛行場を主基地として展開。装備機ははじめ、九七式戦闘機であったが、昭和18(1943)年7月、三式戦闘機が制式化されると此れに機種改変。ハ40発動機の不調に悩まされながらも、熟練整備班の不断の努力と、工場が近い事による豊富な部品供給により、三式戦装備部隊としては非常に高い稼働率を維持した。昭和19(1944)年2月、前年9月より陸軍航空部隊中、戦闘戦隊では、中隊編成に代わり新たに「飛行隊編制」が制定された為、第244戦隊もこれに移行。更に11月、新戦隊長小林大尉着任時に、旧第1中隊は「そよかぜ隊(第1飛行隊)」、旧第2中隊は「とっぷう隊(第2飛行隊)」、旧第3中隊は「みかづき隊(第3飛行隊)」に名称変更した。これら「そよかぜ」などの呼称は、無線電話等の呼出符号を兼ねた正式名称である。この時期、第244戦隊は錬成により夜間戦闘能力を向上させていく。11月からは本格化する本土空襲の邀撃にあたり、震天制空隊によるB29への体当たり攻撃を含めた244戦隊の活躍は(体当たり攻撃は18回行われ、戦死7名)連日新聞紙上を賑わし、ニュース映画でも取り上げられた。12月より浜松陸軍飛行場に展開し、米空母機動部隊の邀撃や、中京地区の防空任務にあたった。昭和20(1945)年4月からは、硫黄島からP-51がB-29に随伴するようになり、更に苦戦を強いられるようになった。また戦力温存の為、米機動部隊艦載機への邀撃は禁止された。4月下旬に「五式戦闘機」が制式化されると、5月12日にはただちに全機機種改変を行う。5月15日、第1総軍司令官杉山元元帥より部隊感状授与。これによればB-29撃墜73機、撃破92機。F6F撃墜10機、撃破2機。SB2C撃墜1機とされる。この後、知覧陸軍飛行場に展開し天号作戦に参加。沖縄戦の特攻隊直掩任務につく。沖縄戦終結後は、小牧陸軍飛行場、八日市陸軍飛行場へと転進し、編成より一度も外地へ派遣される事なく終戦を迎え、8月末に解隊された。第244戦隊にはエースパイロットとして、飛行戦隊長小林照彦少佐以下、第1飛行隊(そよかぜ)隊長生野文介大尉、第2飛行隊(とっぷう)隊長竹田五郎大尉、第3飛行隊(みかづき)隊長白井長雄大尉、市川忠一大尉、小原伝大尉、佐藤権之助准尉、浅野二郎曹長らがいる。[小林照彦陸軍少佐]小林照彦(こばやしてるひこ)陸軍少佐は、大正9(1920)年11月17日、東京府生まれ。国士舘中学卒業。昭和15(1940)年陸軍士官学校53期卒業。砲兵科から航空兵科へ転科し、空中勤務者(軽爆撃機分科)となる。飛行第45戦隊、飛行第66戦隊を経て、昭和18(1943)年11月、戦闘機分科に転科。明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける。教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行学校、林陸軍飛行学校で教官任務。昭和19(1944)年11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、陸軍大尉)の飛行戦隊長として、帝都防空隊の飛行第244戦隊(東京都調布飛行場)に着任。当初の装備機は三式戦闘機であった。昭和20(1945)年5月以降は、五式戦闘機に機種改変。小林戦隊長は常に自ら搭乗して邀撃戦を行い、終戦迄、日本本土の防空任務にあたった。帝国陸軍航空兵科の「飛行戦隊」は、他兵科の「連隊」にの相当するが、連隊長にあたる戦隊長は、階級や年齢に関わらず自ら第一線機に搭乗して陣頭指揮を執った。更に飛行戦隊の上級部隊であり、他兵科の「旅団」に相当する「飛行団」の長である飛行団長も、自ら第一線機に搭乗して麾下の飛行戦隊を空中指揮した例が珍しくない。例として昭和19(1944)年8月20日に北九州に来襲したB-29編隊を迎撃し、B-29爆撃機1機を撃墜した第16飛行団長新藤常右衛門中佐(当時41歳)などがあり、航空史家の渡辺洋二氏は「(新藤中佐は)おそらくB-29撃墜者の最長老であろう」と評している。飛行第244戦隊長小林少佐も、戦隊長標識を施した三式戦闘機や五式戦闘機を駆って本土防空戦の陣頭に立ち、昭和20(1945)年4月12日の戦闘で乗機を撃墜され、山梨県大月市付近に落下傘降下した際は、救助してくれた村人に「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょう」と全く信じて貰えなかったという逸話がある。昭和20(1945)年1月27日、B-29爆撃機1機を体当たりで撃墜、落下傘降下して再度生還したが、小林少佐は軽傷(擦過・打撲傷)を負ったのみであった。4月12日、B-29編隊に単機突入し戦闘。直衛戦闘機グラマンF6Fにより被弾。操縦不能となり落下傘降下して三度生還するが、この際右脚に機関砲弾破片による盲管創を受傷。5月15日、第一総軍軍司令官杉山元陸軍元帥より飛行第244戦隊に部隊感状が授与されるが、それに先立ち小林少佐は第一総軍司令部に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた。小林少佐は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答。此の時に陸軍少佐に進級。小林少佐には表彰状並びに陸軍武功徽章乙授与された。最終階級は陸軍少佐。敵機撃墜数は12機(うち1機は体当たり撃墜したB-29爆撃機)。戦後は11月1日に復員し、東京の自宅に戻る。会社勤務の傍ら、昭和21(1946)年4月、明治大学法学部(2部)に入学、昭和25(1950)年卒業。昭和29(1954)年9月4日、航空自衛隊入隊、旧陸軍の経歴から3等空佐任官。航空自衛隊幹部学校を経て、再度戦闘機操縦者の道を歩んだ。松島基地、築城基地勤務を経て、昭和30(1955)年11月から約半年間、米国留学し、F86戦闘機の操縦教育を受ける。帰国後、第1飛行団第1飛行隊長(浜松基地)として教官勤務に就くが、昭和32(1952)年6月4日、搭乗していたT-33練習機が離陸直後に失速墜落。同乗の天野裕3等空佐を先に脱出させた後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦し、小林3佐は脱出せず地上激突し殉職。天野3佐も脱出高度が低過ぎた為地上激突し殉職(2佐に特進)。享年36歳。生涯飛行時間約2,000時間。殉職により2等空佐特進。
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[キットについて]
ファインモールド社らしい繊細なモールドで、スマートなシルエットをよく再現している好印象なキット。主翼の合わせなど一部難があるものの、大変素晴らしい内容である。主翼マウザー砲は真鍮挽き物加工部品が同梱。エンジンルール開状態も再現できる。操縦員フィギュアなし。デカールは、濃緑色マダラ迷彩を再現した大判デカール附属の①飛行第244戦隊戦隊長・小林照彦大尉機(昭和20年1月・調布飛行場)②飛行第244戦隊第1飛行隊「そよかぜ隊」隊長・生野文介大尉機(昭和20年2月・調布飛行場)、の2種類。精密なコーションマークも附属していて再現度が高い。
作例は当時の写真にも遺る、① 三式戦闘機1型丙(キ61-I丙)・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機(昭和20年2月・調布飛行場)。個性的な標識・塗装・迷彩を施すことが認められていた陸軍航空部隊の中でも、特に第244戦隊は派手なことで知られる。
[飛行第244戦隊(飛行第二百四十四戰隊)]
通称号「帥三四二一三部隊」。軍隊符号「244FR」又は「244F」。主に帝都防衛任務にあたり、禁闕守護の近衛師団に準え、「近衛飛行隊」と自他共に称していた。部隊記章は「244」を図案化し星を散らしたものを垂直尾翼に描いた。
昭和16(1941)年8月、当初は「飛行第144戦隊」として編成。昭和17(1942)年4月、西日本方面の防空専任部隊(近畿地区の飛行第246戦隊、北九州地区の飛行第248戦隊)新編に伴い、「飛行第244戦隊」と改称。歴代戦隊長は、初代泊重愛少佐、2代村岡進一少佐、3代藤田隆少佐、4代(最終)小林照彦少佐。中でも大戦末期に着任した高名な小林少佐は、24歳という当時陸軍最年少戦隊長であり、自身もエースパイロットであった。
第144戦隊編成時より、東京の調布陸軍飛行場を主基地として展開。装備機ははじめ、九七式戦闘機であったが、昭和18(1943)年7月、三式戦闘機が制式化されると此れに機種改変。ハ40発動機の不調に悩まされながらも、熟練整備班の不断の努力と、工場が近い事による豊富な部品供給により、三式戦装備部隊としては非常に高い稼働率を維持した。
昭和19(1944)年2月、前年9月より陸軍航空部隊中、戦闘戦隊では、中隊編成に代わり新たに「飛行隊編制」が制定された為、第244戦隊もこれに移行。更に11月、新戦隊長小林大尉着任時に、旧第1中隊は「そよかぜ隊(第1飛行隊)」、旧第2中隊は「とっぷう隊(第2飛行隊)」、旧第3中隊は「みかづき隊(第3飛行隊)」に名称変更した。これら「そよかぜ」などの呼称は、無線電話等の呼出符号を兼ねた正式名称である。この時期、第244戦隊は錬成により夜間戦闘能力を向上させていく。
11月からは本格化する本土空襲の邀撃にあたり、震天制空隊によるB29への体当たり攻撃を含めた244戦隊の活躍は(体当たり攻撃は18回行われ、戦死7名)連日新聞紙上を賑わし、ニュース映画でも取り上げられた。12月より浜松陸軍飛行場に展開し、米空母機動部隊の邀撃や、中京地区の防空任務にあたった。
昭和20(1945)年4月からは、硫黄島からP-51がB-29に随伴するようになり、更に苦戦を強いられるようになった。また戦力温存の為、米機動部隊艦載機への邀撃は禁止された。4月下旬に「五式戦闘機」が制式化されると、5月12日にはただちに全機機種改変を行う。5月15日、第1総軍司令官杉山元元帥より部隊感状授与。これによればB-29撃墜73機、撃破92機。F6F撃墜10機、撃破2機。SB2C撃墜1機とされる。この後、知覧陸軍飛行場に展開し天号作戦に参加。沖縄戦の特攻隊直掩任務につく。沖縄戦終結後は、小牧陸軍飛行場、八日市陸軍飛行場へと転進し、編成より一度も外地へ派遣される事なく終戦を迎え、8月末に解隊された。
第244戦隊にはエースパイロットとして、飛行戦隊長小林照彦少佐以下、第1飛行隊(そよかぜ)隊長生野文介大尉、第2飛行隊(とっぷう)隊長竹田五郎大尉、第3飛行隊(みかづき)隊長白井長雄大尉、市川忠一大尉、小原伝大尉、佐藤権之助准尉、浅野二郎曹長らがいる。
[小林照彦陸軍少佐]
小林照彦(こばやしてるひこ)陸軍少佐は、大正9(1920)年11月17日、東京府生まれ。国士舘中学卒業。昭和15(1940)年陸軍士官学校53期卒業。砲兵科から航空兵科へ転科し、空中勤務者(軽爆撃機分科)となる。飛行第45戦隊、飛行第66戦隊を経て、昭和18(1943)年11月、戦闘機分科に転科。明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける。教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行学校、林陸軍飛行学校で教官任務。
昭和19(1944)年11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、陸軍大尉)の飛行戦隊長として、帝都防空隊の飛行第244戦隊(東京都調布飛行場)に着任。当初の装備機は三式戦闘機であった。昭和20(1945)年5月以降は、五式戦闘機に機種改変。小林戦隊長は常に自ら搭乗して邀撃戦を行い、終戦迄、日本本土の防空任務にあたった。
帝国陸軍航空兵科の「飛行戦隊」は、他兵科の「連隊」にの相当するが、連隊長にあたる戦隊長は、階級や年齢に関わらず自ら第一線機に搭乗して陣頭指揮を執った。更に飛行戦隊の上級部隊であり、他兵科の「旅団」に相当する「飛行団」の長である飛行団長も、自ら第一線機に搭乗して麾下の飛行戦隊を空中指揮した例が珍しくない。
例として昭和19(1944)年8月20日に北九州に来襲したB-29編隊を迎撃し、B-29爆撃機1機を撃墜した第16飛行団長新藤常右衛門中佐(当時41歳)などがあり、航空史家の渡辺洋二氏は「(新藤中佐は)おそらくB-29撃墜者の最長老であろう」と評している。
飛行第244戦隊長小林少佐も、戦隊長標識を施した三式戦闘機や五式戦闘機を駆って本土防空戦の陣頭に立ち、昭和20(1945)年4月12日の戦闘で乗機を撃墜され、山梨県大月市付近に落下傘降下した際は、救助してくれた村人に「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょう」と全く信じて貰えなかったという逸話がある。
昭和20(1945)年1月27日、B-29爆撃機1機を体当たりで撃墜、落下傘降下して再度生還したが、小林少佐は軽傷(擦過・打撲傷)を負ったのみであった。4月12日、B-29編隊に単機突入し戦闘。直衛戦闘機グラマンF6Fにより被弾。操縦不能となり落下傘降下して三度生還するが、この際右脚に機関砲弾破片による盲管創を受傷。
5月15日、第一総軍軍司令官杉山元陸軍元帥より飛行第244戦隊に部隊感状が授与されるが、それに先立ち小林少佐は第一総軍司令部に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた。小林少佐は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答。此の時に陸軍少佐に進級。小林少佐には表彰状並びに陸軍武功徽章乙授与された。最終階級は陸軍少佐。敵機撃墜数は12機(うち1機は体当たり撃墜したB-29爆撃機)。
戦後は11月1日に復員し、東京の自宅に戻る。会社勤務の傍ら、昭和21(1946)年4月、明治大学法学部(2部)に入学、昭和25(1950)年卒業。昭和29(1954)年9月4日、航空自衛隊入隊、旧陸軍の経歴から3等空佐任官。航空自衛隊幹部学校を経て、再度戦闘機操縦者の道を歩んだ。松島基地、築城基地勤務を経て、昭和30(1955)年11月から約半年間、米国留学し、F86戦闘機の操縦教育を受ける。帰国後、第1飛行団第1飛行隊長(浜松基地)として教官勤務に就くが、昭和32(1952)年6月4日、搭乗していたT-33練習機が離陸直後に失速墜落。同乗の天野裕3等空佐を先に脱出させた後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦し、小林3佐は脱出せず地上激突し殉職。天野3佐も脱出高度が低過ぎた為地上激突し殉職(2佐に特進)。享年36歳。生涯飛行時間約2,000時間。殉職により2等空佐特進。
ファインモールド1/72・川崎三式戦闘機Ⅰ型丙・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機・昭和20(1945)年2月・調布陸軍飛行場・21.07.20完成
[キットについて]
ファインモールド社らしい繊細なモールドで、スマートなシルエットをよく再現している好印象なキット。主翼の合わせなど一部難があるものの、大変素晴らしい内容である。主翼マウザー砲は真鍮挽き物加工部品が同梱。エンジンルール開状態も再現できる。操縦員フィギュアなし。デカールは、濃緑色マダラ迷彩を再現した大判デカール附属の①飛行第244戦隊戦隊長・小林照彦大尉機(昭和20年1月・調布飛行場)②飛行第244戦隊第1飛行隊「そよかぜ隊」隊長・生野文介大尉機(昭和20年2月・調布飛行場)、の2種類。精密なコーションマークも附属していて再現度が高い。
作例は当時の写真にも遺る、① 三式戦闘機1型丙(キ61-I丙)・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機(昭和20年2月・調布飛行場)。個性的な標識・塗装・迷彩を施すことが認められていた陸軍航空部隊の中でも、特に第244戦隊は派手なことで知られる。
[飛行第244戦隊(飛行第二百四十四戰隊)]
通称号「帥三四二一三部隊」。軍隊符号「244FR」又は「244F」。主に帝都防衛任務にあたり、禁闕守護の近衛師団に準え、「近衛飛行隊」と自他共に称していた。部隊記章は「244」を図案化し星を散らしたものを垂直尾翼に描いた。
昭和16(1941)年8月、当初は「飛行第144戦隊」として編成。昭和17(1942)年4月、西日本方面の防空専任部隊(近畿地区の飛行第246戦隊、北九州地区の飛行第248戦隊)新編に伴い、「飛行第244戦隊」と改称。歴代戦隊長は、初代泊重愛少佐、2代村岡進一少佐、3代藤田隆少佐、4代(最終)小林照彦少佐。中でも大戦末期に着任した高名な小林少佐は、24歳という当時陸軍最年少戦隊長であり、自身もエースパイロットであった。
第144戦隊編成時より、東京の調布陸軍飛行場を主基地として展開。装備機ははじめ、九七式戦闘機であったが、昭和18(1943)年7月、三式戦闘機が制式化されると此れに機種改変。ハ40発動機の不調に悩まされながらも、熟練整備班の不断の努力と、工場が近い事による豊富な部品供給により、三式戦装備部隊としては非常に高い稼働率を維持した。
昭和19(1944)年2月、前年9月より陸軍航空部隊中、戦闘戦隊では、中隊編成に代わり新たに「飛行隊編制」が制定された為、第244戦隊もこれに移行。更に11月、新戦隊長小林大尉着任時に、旧第1中隊は「そよかぜ隊(第1飛行隊)」、旧第2中隊は「とっぷう隊(第2飛行隊)」、旧第3中隊は「みかづき隊(第3飛行隊)」に名称変更した。これら「そよかぜ」などの呼称は、無線電話等の呼出符号を兼ねた正式名称である。この時期、第244戦隊は錬成により夜間戦闘能力を向上させていく。
11月からは本格化する本土空襲の邀撃にあたり、震天制空隊によるB29への体当たり攻撃を含めた244戦隊の活躍は(体当たり攻撃は18回行われ、戦死7名)連日新聞紙上を賑わし、ニュース映画でも取り上げられた。12月より浜松陸軍飛行場に展開し、米空母機動部隊の邀撃や、中京地区の防空任務にあたった。
昭和20(1945)年4月からは、硫黄島からP-51がB-29に随伴するようになり、更に苦戦を強いられるようになった。また戦力温存の為、米機動部隊艦載機への邀撃は禁止された。4月下旬に「五式戦闘機」が制式化されると、5月12日にはただちに全機機種改変を行う。5月15日、第1総軍司令官杉山元元帥より部隊感状授与。これによればB-29撃墜73機、撃破92機。F6F撃墜10機、撃破2機。SB2C撃墜1機とされる。この後、知覧陸軍飛行場に展開し天号作戦に参加。沖縄戦の特攻隊直掩任務につく。沖縄戦終結後は、小牧陸軍飛行場、八日市陸軍飛行場へと転進し、編成より一度も外地へ派遣される事なく終戦を迎え、8月末に解隊された。
第244戦隊にはエースパイロットとして、飛行戦隊長小林照彦少佐以下、第1飛行隊(そよかぜ)隊長生野文介大尉、第2飛行隊(とっぷう)隊長竹田五郎大尉、第3飛行隊(みかづき)隊長白井長雄大尉、市川忠一大尉、小原伝大尉、佐藤権之助准尉、浅野二郎曹長らがいる。
[小林照彦陸軍少佐]
小林照彦(こばやしてるひこ)陸軍少佐は、大正9(1920)年11月17日、東京府生まれ。国士舘中学卒業。昭和15(1940)年陸軍士官学校53期卒業。砲兵科から航空兵科へ転科し、空中勤務者(軽爆撃機分科)となる。飛行第45戦隊、飛行第66戦隊を経て、昭和18(1943)年11月、戦闘機分科に転科。明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける。教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行学校、林陸軍飛行学校で教官任務。
昭和19(1944)年11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、陸軍大尉)の飛行戦隊長として、帝都防空隊の飛行第244戦隊(東京都調布飛行場)に着任。当初の装備機は三式戦闘機であった。昭和20(1945)年5月以降は、五式戦闘機に機種改変。小林戦隊長は常に自ら搭乗して邀撃戦を行い、終戦迄、日本本土の防空任務にあたった。
帝国陸軍航空兵科の「飛行戦隊」は、他兵科の「連隊」にの相当するが、連隊長にあたる戦隊長は、階級や年齢に関わらず自ら第一線機に搭乗して陣頭指揮を執った。更に飛行戦隊の上級部隊であり、他兵科の「旅団」に相当する「飛行団」の長である飛行団長も、自ら第一線機に搭乗して麾下の飛行戦隊を空中指揮した例が珍しくない。
例として昭和19(1944)年8月20日に北九州に来襲したB-29編隊を迎撃し、B-29爆撃機1機を撃墜した第16飛行団長新藤常右衛門中佐(当時41歳)などがあり、航空史家の渡辺洋二氏は「(新藤中佐は)おそらくB-29撃墜者の最長老であろう」と評している。
飛行第244戦隊長小林少佐も、戦隊長標識を施した三式戦闘機や五式戦闘機を駆って本土防空戦の陣頭に立ち、昭和20(1945)年4月12日の戦闘で乗機を撃墜され、山梨県大月市付近に落下傘降下した際は、救助してくれた村人に「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょう」と全く信じて貰えなかったという逸話がある。
昭和20(1945)年1月27日、B-29爆撃機1機を体当たりで撃墜、落下傘降下して再度生還したが、小林少佐は軽傷(擦過・打撲傷)を負ったのみであった。4月12日、B-29編隊に単機突入し戦闘。直衛戦闘機グラマンF6Fにより被弾。操縦不能となり落下傘降下して三度生還するが、この際右脚に機関砲弾破片による盲管創を受傷。
5月15日、第一総軍軍司令官杉山元陸軍元帥より飛行第244戦隊に部隊感状が授与されるが、それに先立ち小林少佐は第一総軍司令部に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた。小林少佐は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答。此の時に陸軍少佐に進級。小林少佐には表彰状並びに陸軍武功徽章乙授与された。最終階級は陸軍少佐。敵機撃墜数は12機(うち1機は体当たり撃墜したB-29爆撃機)。
戦後は11月1日に復員し、東京の自宅に戻る。会社勤務の傍ら、昭和21(1946)年4月、明治大学法学部(2部)に入学、昭和25(1950)年卒業。昭和29(1954)年9月4日、航空自衛隊入隊、旧陸軍の経歴から3等空佐任官。航空自衛隊幹部学校を経て、再度戦闘機操縦者の道を歩んだ。松島基地、築城基地勤務を経て、昭和30(1955)年11月から約半年間、米国留学し、F86戦闘機の操縦教育を受ける。帰国後、第1飛行団第1飛行隊長(浜松基地)として教官勤務に就くが、昭和32(1952)年6月4日、搭乗していたT-33練習機が離陸直後に失速墜落。同乗の天野裕3等空佐を先に脱出させた後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦し、小林3佐は脱出せず地上激突し殉職。天野3佐も脱出高度が低過ぎた為地上激突し殉職(2佐に特進)。享年36歳。生涯飛行時間約2,000時間。殉職により2等空佐特進。
[キットについて]
ファインモールド社らしい繊細なモールドで、スマートなシルエットをよく再現している好印象なキット。主翼の合わせなど一部難があるものの、大変素晴らしい内容である。主翼マウザー砲は真鍮挽き物加工部品が同梱。エンジンルール開状態も再現できる。操縦員フィギュアなし。デカールは、濃緑色マダラ迷彩を再現した大判デカール附属の①飛行第244戦隊戦隊長・小林照彦大尉機(昭和20年1月・調布飛行場)②飛行第244戦隊第1飛行隊「そよかぜ隊」隊長・生野文介大尉機(昭和20年2月・調布飛行場)、の2種類。精密なコーションマークも附属していて再現度が高い。
作例は当時の写真にも遺る、① 三式戦闘機1型丙(キ61-I丙)・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機(昭和20年2月・調布飛行場)。個性的な標識・塗装・迷彩を施すことが認められていた陸軍航空部隊の中でも、特に第244戦隊は派手なことで知られる。
[飛行第244戦隊(飛行第二百四十四戰隊)]
通称号「帥三四二一三部隊」。軍隊符号「244FR」又は「244F」。主に帝都防衛任務にあたり、禁闕守護の近衛師団に準え、「近衛飛行隊」と自他共に称していた。部隊記章は「244」を図案化し星を散らしたものを垂直尾翼に描いた。
昭和16(1941)年8月、当初は「飛行第144戦隊」として編成。昭和17(1942)年4月、西日本方面の防空専任部隊(近畿地区の飛行第246戦隊、北九州地区の飛行第248戦隊)新編に伴い、「飛行第244戦隊」と改称。歴代戦隊長は、初代泊重愛少佐、2代村岡進一少佐、3代藤田隆少佐、4代(最終)小林照彦少佐。中でも大戦末期に着任した高名な小林少佐は、24歳という当時陸軍最年少戦隊長であり、自身もエースパイロットであった。
第144戦隊編成時より、東京の調布陸軍飛行場を主基地として展開。装備機ははじめ、九七式戦闘機であったが、昭和18(1943)年7月、三式戦闘機が制式化されると此れに機種改変。ハ40発動機の不調に悩まされながらも、熟練整備班の不断の努力と、工場が近い事による豊富な部品供給により、三式戦装備部隊としては非常に高い稼働率を維持した。
昭和19(1944)年2月、前年9月より陸軍航空部隊中、戦闘戦隊では、中隊編成に代わり新たに「飛行隊編制」が制定された為、第244戦隊もこれに移行。更に11月、新戦隊長小林大尉着任時に、旧第1中隊は「そよかぜ隊(第1飛行隊)」、旧第2中隊は「とっぷう隊(第2飛行隊)」、旧第3中隊は「みかづき隊(第3飛行隊)」に名称変更した。これら「そよかぜ」などの呼称は、無線電話等の呼出符号を兼ねた正式名称である。この時期、第244戦隊は錬成により夜間戦闘能力を向上させていく。
11月からは本格化する本土空襲の邀撃にあたり、震天制空隊によるB29への体当たり攻撃を含めた244戦隊の活躍は(体当たり攻撃は18回行われ、戦死7名)連日新聞紙上を賑わし、ニュース映画でも取り上げられた。12月より浜松陸軍飛行場に展開し、米空母機動部隊の邀撃や、中京地区の防空任務にあたった。
昭和20(1945)年4月からは、硫黄島からP-51がB-29に随伴するようになり、更に苦戦を強いられるようになった。また戦力温存の為、米機動部隊艦載機への邀撃は禁止された。4月下旬に「五式戦闘機」が制式化されると、5月12日にはただちに全機機種改変を行う。5月15日、第1総軍司令官杉山元元帥より部隊感状授与。これによればB-29撃墜73機、撃破92機。F6F撃墜10機、撃破2機。SB2C撃墜1機とされる。この後、知覧陸軍飛行場に展開し天号作戦に参加。沖縄戦の特攻隊直掩任務につく。沖縄戦終結後は、小牧陸軍飛行場、八日市陸軍飛行場へと転進し、編成より一度も外地へ派遣される事なく終戦を迎え、8月末に解隊された。
第244戦隊にはエースパイロットとして、飛行戦隊長小林照彦少佐以下、第1飛行隊(そよかぜ)隊長生野文介大尉、第2飛行隊(とっぷう)隊長竹田五郎大尉、第3飛行隊(みかづき)隊長白井長雄大尉、市川忠一大尉、小原伝大尉、佐藤権之助准尉、浅野二郎曹長らがいる。
[小林照彦陸軍少佐]
小林照彦(こばやしてるひこ)陸軍少佐は、大正9(1920)年11月17日、東京府生まれ。国士舘中学卒業。昭和15(1940)年陸軍士官学校53期卒業。砲兵科から航空兵科へ転科し、空中勤務者(軽爆撃機分科)となる。飛行第45戦隊、飛行第66戦隊を経て、昭和18(1943)年11月、戦闘機分科に転科。明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける。教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行学校、林陸軍飛行学校で教官任務。
昭和19(1944)年11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、陸軍大尉)の飛行戦隊長として、帝都防空隊の飛行第244戦隊(東京都調布飛行場)に着任。当初の装備機は三式戦闘機であった。昭和20(1945)年5月以降は、五式戦闘機に機種改変。小林戦隊長は常に自ら搭乗して邀撃戦を行い、終戦迄、日本本土の防空任務にあたった。
帝国陸軍航空兵科の「飛行戦隊」は、他兵科の「連隊」にの相当するが、連隊長にあたる戦隊長は、階級や年齢に関わらず自ら第一線機に搭乗して陣頭指揮を執った。更に飛行戦隊の上級部隊であり、他兵科の「旅団」に相当する「飛行団」の長である飛行団長も、自ら第一線機に搭乗して麾下の飛行戦隊を空中指揮した例が珍しくない。
例として昭和19(1944)年8月20日に北九州に来襲したB-29編隊を迎撃し、B-29爆撃機1機を撃墜した第16飛行団長新藤常右衛門中佐(当時41歳)などがあり、航空史家の渡辺洋二氏は「(新藤中佐は)おそらくB-29撃墜者の最長老であろう」と評している。
飛行第244戦隊長小林少佐も、戦隊長標識を施した三式戦闘機や五式戦闘機を駆って本土防空戦の陣頭に立ち、昭和20(1945)年4月12日の戦闘で乗機を撃墜され、山梨県大月市付近に落下傘降下した際は、救助してくれた村人に「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょう」と全く信じて貰えなかったという逸話がある。
昭和20(1945)年1月27日、B-29爆撃機1機を体当たりで撃墜、落下傘降下して再度生還したが、小林少佐は軽傷(擦過・打撲傷)を負ったのみであった。4月12日、B-29編隊に単機突入し戦闘。直衛戦闘機グラマンF6Fにより被弾。操縦不能となり落下傘降下して三度生還するが、この際右脚に機関砲弾破片による盲管創を受傷。
5月15日、第一総軍軍司令官杉山元陸軍元帥より飛行第244戦隊に部隊感状が授与されるが、それに先立ち小林少佐は第一総軍司令部に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた。小林少佐は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答。此の時に陸軍少佐に進級。小林少佐には表彰状並びに陸軍武功徽章乙授与された。最終階級は陸軍少佐。敵機撃墜数は12機(うち1機は体当たり撃墜したB-29爆撃機)。
戦後は11月1日に復員し、東京の自宅に戻る。会社勤務の傍ら、昭和21(1946)年4月、明治大学法学部(2部)に入学、昭和25(1950)年卒業。昭和29(1954)年9月4日、航空自衛隊入隊、旧陸軍の経歴から3等空佐任官。航空自衛隊幹部学校を経て、再度戦闘機操縦者の道を歩んだ。松島基地、築城基地勤務を経て、昭和30(1955)年11月から約半年間、米国留学し、F86戦闘機の操縦教育を受ける。帰国後、第1飛行団第1飛行隊長(浜松基地)として教官勤務に就くが、昭和32(1952)年6月4日、搭乗していたT-33練習機が離陸直後に失速墜落。同乗の天野裕3等空佐を先に脱出させた後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦し、小林3佐は脱出せず地上激突し殉職。天野3佐も脱出高度が低過ぎた為地上激突し殉職(2佐に特進)。享年36歳。生涯飛行時間約2,000時間。殉職により2等空佐特進。
5つ星のうち5.0
ファインモールド・川崎三式戦闘機Ⅰ型丙・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機・昭和20(1945)年2月・調布陸軍飛行場
2021年7月21日に日本でレビュー済み
ファインモールド1/72・川崎三式戦闘機Ⅰ型丙・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機・昭和20(1945)年2月・調布陸軍飛行場・21.07.20完成2021年7月21日に日本でレビュー済み
[キットについて]
ファインモールド社らしい繊細なモールドで、スマートなシルエットをよく再現している好印象なキット。主翼の合わせなど一部難があるものの、大変素晴らしい内容である。主翼マウザー砲は真鍮挽き物加工部品が同梱。エンジンルール開状態も再現できる。操縦員フィギュアなし。デカールは、濃緑色マダラ迷彩を再現した大判デカール附属の①飛行第244戦隊戦隊長・小林照彦大尉機(昭和20年1月・調布飛行場)②飛行第244戦隊第1飛行隊「そよかぜ隊」隊長・生野文介大尉機(昭和20年2月・調布飛行場)、の2種類。精密なコーションマークも附属していて再現度が高い。
作例は当時の写真にも遺る、① 三式戦闘機1型丙(キ61-I丙)・飛行第244戦隊本部小隊戦隊長、小林照彦少佐機(昭和20年2月・調布飛行場)。個性的な標識・塗装・迷彩を施すことが認められていた陸軍航空部隊の中でも、特に第244戦隊は派手なことで知られる。
[飛行第244戦隊(飛行第二百四十四戰隊)]
通称号「帥三四二一三部隊」。軍隊符号「244FR」又は「244F」。主に帝都防衛任務にあたり、禁闕守護の近衛師団に準え、「近衛飛行隊」と自他共に称していた。部隊記章は「244」を図案化し星を散らしたものを垂直尾翼に描いた。
昭和16(1941)年8月、当初は「飛行第144戦隊」として編成。昭和17(1942)年4月、西日本方面の防空専任部隊(近畿地区の飛行第246戦隊、北九州地区の飛行第248戦隊)新編に伴い、「飛行第244戦隊」と改称。歴代戦隊長は、初代泊重愛少佐、2代村岡進一少佐、3代藤田隆少佐、4代(最終)小林照彦少佐。中でも大戦末期に着任した高名な小林少佐は、24歳という当時陸軍最年少戦隊長であり、自身もエースパイロットであった。
第144戦隊編成時より、東京の調布陸軍飛行場を主基地として展開。装備機ははじめ、九七式戦闘機であったが、昭和18(1943)年7月、三式戦闘機が制式化されると此れに機種改変。ハ40発動機の不調に悩まされながらも、熟練整備班の不断の努力と、工場が近い事による豊富な部品供給により、三式戦装備部隊としては非常に高い稼働率を維持した。
昭和19(1944)年2月、前年9月より陸軍航空部隊中、戦闘戦隊では、中隊編成に代わり新たに「飛行隊編制」が制定された為、第244戦隊もこれに移行。更に11月、新戦隊長小林大尉着任時に、旧第1中隊は「そよかぜ隊(第1飛行隊)」、旧第2中隊は「とっぷう隊(第2飛行隊)」、旧第3中隊は「みかづき隊(第3飛行隊)」に名称変更した。これら「そよかぜ」などの呼称は、無線電話等の呼出符号を兼ねた正式名称である。この時期、第244戦隊は錬成により夜間戦闘能力を向上させていく。
11月からは本格化する本土空襲の邀撃にあたり、震天制空隊によるB29への体当たり攻撃を含めた244戦隊の活躍は(体当たり攻撃は18回行われ、戦死7名)連日新聞紙上を賑わし、ニュース映画でも取り上げられた。12月より浜松陸軍飛行場に展開し、米空母機動部隊の邀撃や、中京地区の防空任務にあたった。
昭和20(1945)年4月からは、硫黄島からP-51がB-29に随伴するようになり、更に苦戦を強いられるようになった。また戦力温存の為、米機動部隊艦載機への邀撃は禁止された。4月下旬に「五式戦闘機」が制式化されると、5月12日にはただちに全機機種改変を行う。5月15日、第1総軍司令官杉山元元帥より部隊感状授与。これによればB-29撃墜73機、撃破92機。F6F撃墜10機、撃破2機。SB2C撃墜1機とされる。この後、知覧陸軍飛行場に展開し天号作戦に参加。沖縄戦の特攻隊直掩任務につく。沖縄戦終結後は、小牧陸軍飛行場、八日市陸軍飛行場へと転進し、編成より一度も外地へ派遣される事なく終戦を迎え、8月末に解隊された。
第244戦隊にはエースパイロットとして、飛行戦隊長小林照彦少佐以下、第1飛行隊(そよかぜ)隊長生野文介大尉、第2飛行隊(とっぷう)隊長竹田五郎大尉、第3飛行隊(みかづき)隊長白井長雄大尉、市川忠一大尉、小原伝大尉、佐藤権之助准尉、浅野二郎曹長らがいる。
[小林照彦陸軍少佐]
小林照彦(こばやしてるひこ)陸軍少佐は、大正9(1920)年11月17日、東京府生まれ。国士舘中学卒業。昭和15(1940)年陸軍士官学校53期卒業。砲兵科から航空兵科へ転科し、空中勤務者(軽爆撃機分科)となる。飛行第45戦隊、飛行第66戦隊を経て、昭和18(1943)年11月、戦闘機分科に転科。明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける。教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行学校、林陸軍飛行学校で教官任務。
昭和19(1944)年11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、陸軍大尉)の飛行戦隊長として、帝都防空隊の飛行第244戦隊(東京都調布飛行場)に着任。当初の装備機は三式戦闘機であった。昭和20(1945)年5月以降は、五式戦闘機に機種改変。小林戦隊長は常に自ら搭乗して邀撃戦を行い、終戦迄、日本本土の防空任務にあたった。
帝国陸軍航空兵科の「飛行戦隊」は、他兵科の「連隊」にの相当するが、連隊長にあたる戦隊長は、階級や年齢に関わらず自ら第一線機に搭乗して陣頭指揮を執った。更に飛行戦隊の上級部隊であり、他兵科の「旅団」に相当する「飛行団」の長である飛行団長も、自ら第一線機に搭乗して麾下の飛行戦隊を空中指揮した例が珍しくない。
例として昭和19(1944)年8月20日に北九州に来襲したB-29編隊を迎撃し、B-29爆撃機1機を撃墜した第16飛行団長新藤常右衛門中佐(当時41歳)などがあり、航空史家の渡辺洋二氏は「(新藤中佐は)おそらくB-29撃墜者の最長老であろう」と評している。
飛行第244戦隊長小林少佐も、戦隊長標識を施した三式戦闘機や五式戦闘機を駆って本土防空戦の陣頭に立ち、昭和20(1945)年4月12日の戦闘で乗機を撃墜され、山梨県大月市付近に落下傘降下した際は、救助してくれた村人に「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょう」と全く信じて貰えなかったという逸話がある。
昭和20(1945)年1月27日、B-29爆撃機1機を体当たりで撃墜、落下傘降下して再度生還したが、小林少佐は軽傷(擦過・打撲傷)を負ったのみであった。4月12日、B-29編隊に単機突入し戦闘。直衛戦闘機グラマンF6Fにより被弾。操縦不能となり落下傘降下して三度生還するが、この際右脚に機関砲弾破片による盲管創を受傷。
5月15日、第一総軍軍司令官杉山元陸軍元帥より飛行第244戦隊に部隊感状が授与されるが、それに先立ち小林少佐は第一総軍司令部に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた。小林少佐は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答。此の時に陸軍少佐に進級。小林少佐には表彰状並びに陸軍武功徽章乙授与された。最終階級は陸軍少佐。敵機撃墜数は12機(うち1機は体当たり撃墜したB-29爆撃機)。
戦後は11月1日に復員し、東京の自宅に戻る。会社勤務の傍ら、昭和21(1946)年4月、明治大学法学部(2部)に入学、昭和25(1950)年卒業。昭和29(1954)年9月4日、航空自衛隊入隊、旧陸軍の経歴から3等空佐任官。航空自衛隊幹部学校を経て、再度戦闘機操縦者の道を歩んだ。松島基地、築城基地勤務を経て、昭和30(1955)年11月から約半年間、米国留学し、F86戦闘機の操縦教育を受ける。帰国後、第1飛行団第1飛行隊長(浜松基地)として教官勤務に就くが、昭和32(1952)年6月4日、搭乗していたT-33練習機が離陸直後に失速墜落。同乗の天野裕3等空佐を先に脱出させた後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦し、小林3佐は脱出せず地上激突し殉職。天野3佐も脱出高度が低過ぎた為地上激突し殉職(2佐に特進)。享年36歳。生涯飛行時間約2,000時間。殉職により2等空佐特進。
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2015年6月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
なかなかいいです。
244戦隊の小林隊長の機体です。
デカールがでかいので、塗装は楽かと思います。
このてのデカールは初めてなのでびっくりしました。
マウザー砲もついているので大変満足しました。
244戦隊の小林隊長の機体です。
デカールがでかいので、塗装は楽かと思います。
このてのデカールは初めてなのでびっくりしました。
マウザー砲もついているので大変満足しました。
2015年3月30日に日本でレビュー済み
海軍の零戦に比べて注目度が低めの陸軍機ですが、当時の日本軍機は陸軍も海軍も空冷星形エンジンが主流の中、めずらしく液冷エンジンを搭載した三式戦闘機「飛燕」は異色の存在で液冷エンジン搭載機特有のスマートな流線型のフォルムにひかれて結構好きな戦闘機です。見た目の優美さは零戦に劣らないと自分は思います。ただ、日本では液冷エンジンは手に余ったようで生産も整備もうまくいかず、そのせいで稼働率が低くあまり活躍できなかったようです。結局、海軍の艦上爆撃機「彗星」と同様にエンジンを空冷星形エンジンに載せ換えて使われました。ただ空冷エンジンを載せた飛燕は性能が大幅にアップしたため五式戦闘機として正式採用されたそうです。アメリカのP51もエンジンを載せ換えて予想外の性能アップを果たした例もあることを鑑みると飛行機はやっぱりエンジンが命なんだなぁとつくづく思います。でも私は飛燕はやっぱり液冷エンジン時代のスタイルのほうが好きです。そんな飛燕の1/72キットは少々価格設定が高めなものの、良好なファインモールドのものを作りました。迷彩のデカールも初めは「こんなのうまく貼れるのか?」と思ってしまいましたが、やってみると案外うまく貼れてちょっと感動しました!これまで1/72海軍機をメインに作ってきましたが海軍機とはカラーパターンも全然違うので陸軍機もいいですね!このファインモールドの「飛燕」ぐらいのクオリティで一式戦「隼」、二式戦「鐘馗」、四式戦「疾風」のキット、どのメーカーさんでもいいので発売してくれませんかねぇ。これらの1/72スケールのキットで今あるのはH社の凸モールドの古いキットばかり…。これが私がなかなか陸軍機に触手が伸びない理由なんですよねぇ…。
海軍の零戦に比べて注目度が低めの陸軍機ですが、当時の日本軍機は陸軍も海軍も空冷星形エンジンが主流の中、めずらしく液冷エンジンを搭載した三式戦闘機「飛燕」は異色の存在で液冷エンジン搭載機特有のスマートな流線型のフォルムにひかれて結構好きな戦闘機です。見た目の優美さは零戦に劣らないと自分は思います。ただ、日本では液冷エンジンは手に余ったようで生産も整備もうまくいかず、そのせいで稼働率が低くあまり活躍できなかったようです。結局、海軍の艦上爆撃機「彗星」と同様にエンジンを空冷星形エンジンに載せ換えて使われました。ただ空冷エンジンを載せた飛燕は性能が大幅にアップしたため五式戦闘機として正式採用されたそうです。アメリカのP51もエンジンを載せ換えて予想外の性能アップを果たした例もあることを鑑みると飛行機はやっぱりエンジンが命なんだなぁとつくづく思います。でも私は飛燕はやっぱり液冷エンジン時代のスタイルのほうが好きです。そんな飛燕の1/72キットは少々価格設定が高めなものの、良好なファインモールドのものを作りました。迷彩のデカールも初めは「こんなのうまく貼れるのか?」と思ってしまいましたが、やってみると案外うまく貼れてちょっと感動しました!これまで1/72海軍機をメインに作ってきましたが海軍機とはカラーパターンも全然違うので陸軍機もいいですね!このファインモールドの「飛燕」ぐらいのクオリティで一式戦「隼」、二式戦「鐘馗」、四式戦「疾風」のキット、どのメーカーさんでもいいので発売してくれませんかねぇ。これらの1/72スケールのキットで今あるのはH社の凸モールドの古いキットばかり…。これが私がなかなか陸軍機に触手が伸びない理由なんですよねぇ…。
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